2014年1月5日日曜日

ドラマターグのこと。その2


前の記事を書いてから恐ろしく時間が経ってしまいましたが、続きです。

『ホットパーティクル』を上演し終えた私は、文字通り泥のようになってしまいました。
というのも、「よくぞ書いてくれた」「共感した」「自分の半年間も振り返った」など好意的な感想もありながら、かなり否定的な感想も多かったからです。演劇界隈の一部の人たちからは「物語がない。これは演劇ではない」と言われました。しかし、じゃあ、何が演劇なのか? 物語がなくちゃ演劇じゃないのかと、こちらの批判には真っ向から反論しました。また、上演前から「物事が落ち着いて状況が明らかになるまでは、原発事故を作品にするのは危険だ」的なことを言って来る人がいましたが、「官僚が嘘だか本当だかわからない形で状況を分析、発表してからやる表現って何の意味があるんですか?」とこれに対しても言い返すことはできました。この期に及んで演劇の形や、俯瞰で見ることにこだわるのはなんてばかばかしいんだと思っていました。そうは言っても、お金をいただいて作品として発表しているのですから、お客様から「つまらなかった」と言われば、それは「申し訳ない」としか言えません。『ホットパーティクル』は99%本当の出来事ですが(福島に行った部分の半分くらいはビデオテープをそのまま起こしているくらいです)、さすがに二時間お客様に退屈な時間を過ごしていただくのは私の信条として許せないので、演出や構成上で多少の脚色はしました(海に行ったシーンで実際はなかったビーチボールを出すとかそういうことです)。しんどかったのは、中に出て来た登場人物のひとり(つまり私の実際の友人)の感想でした。その人は、作品そのものもそうですが、私という人間の考え方や人間性そのものが納得いかないようでした。もともとあった人生に対する価値観の違いが、原発事故とこの作品を通して表に現れてしまったのです。実際、その人とはこの作品を期にほとんど会わなくなってしまいました。

これは大きなダメージでした。自分をさらけ出した作品をつくることの、本当の厳しさをようやく思い知ったのです。(そうじゃなくても作品は自分なので、批判されると基本的にダメージを受けますが)。会わなくなったと書きましたが、要は私が怯えて逃げたのです。
泥状態になっていた私は、顕史郎さんに元気を出せと「つかへい腹黒日記」を貸してもらってそれを読んでいるうちに少しずつ回復して、そうしてすぐに次の公演がやってきました。
「日本の問題」という8つの劇団が参加する企画公演です。この公演自体は震災前から決まっていました。「問題」というからには、もう目の前にある問題しかありません。震災と原発事故です。私は内容も決まらないまま、チラシには「今、目の前にある東日本大震災および原発事故にまつわる問題をやります。だって今それ以上の問題なんてない」と書きました。

かくして、日本の問題参加作品『指』は始動しました。
役者は合同オーディションをやったときにピンと来た山森信太郎さんとつついきえさんにお願いすることにしました。どんな話をやるかは決めていませんでしたが、彼らには「生活感」があり、そこが気に入りました。『ホットパーティクル』は東京でふわふわ生きている「私」の話だったので、今度は東京以外でもっと地に足をつけて生きている人を描きたいと思っていました。

結果は、地に足どころか、地につばを吐いて生きている、火事場泥棒の話を書くこととなりました。ことの始まりは、出演者のつついさんから聞いた話でした。彼女の知り合いの宮城出身の人が彼女にこんな話をしてくれたそうです。津波のあった場所ではタンス預金のお金が流れていること、それを拾う人たちがいること、そして指が切られている死体が見つかったこと。それはもしかしたら指輪を取るためではないかということ。私はそれをやった人たちを理解できませんでした。理解ができないこと、だからこれをちゃんと想像してみよう、そう思いました。書いてみたら、さほど自分から遠い人間ではありませんでした。もしかしたら自分も状況が違えばこうなっていたかもしれないとも思いました。

『指』は夫婦のふたりが、死んでいる人の指を切るかどうかで対立する話です。男は指輪を取るためにカッターを出せと言います。自分たちが生きるために必要だからです。女は「なんとなく」それは駄目だと言います。夫婦なのに、お互いの言っていることがまったく理解できない、それどころか理解してくれない相手に恐怖すら感じる。でもそれをうまく言葉にはできない。それは、『ホットパーティクル』で身近な人とコミュニケーションが取れなくなった私自身の姿でもありました。また、原発をめぐる言説が、反対派と容認派でまったくかみ合っていないことも描きたいと思っていました。「感情」対「論理」。でも、その論理も実は感情に基づいている。また、感情に従って選択するほうが実は論理的だという見方もできる。そんなことを考えたいと思い台本を上げました。


しかし、案外早く台本が上がったものの、構成上の無理が一カ所だけありました。最後のほうで、女が男を見限り、今までの何も決められない自分を捨てて自らの意志で生きていくと決めるところです。そして、その女の姿に男が影響を受けて、少しだけ変わる。そこが女の内面の変化だけで進んでしまっていました。つついさんは自分の感情を大切につくってくれるので、無理はないように仕上がっていますが、男が影響を受けて変わるほどではありません。これは台本上の欠陥です。

ここでドラマターグの登場です。台本を読んだ顕史郎さんはひとつ提案をしてくれました。男が変わるきっかけとして、目の前にいる死んだ人を「人」だと実感できるような仕掛けを作ったらどうかと。たとえば、知り合いに見えてしまうような。こうして、「ぽんちゃん」という台詞を書きました。女は男がカッターで指を切ろうとした瞬間、目の前の女の人が自分の友達の「ぽんちゃん」に見えてしまう。もちろん、こんなところにいるわけないと女も知っている。でも、服や髪型が似ていると。すると、男のほうもこんなところにいるわけないとわかっているのに、そう見えてしまう。そうしたらもう指を切れなくなる。

これは、私だけで書いていたら、思いつかなかった仕掛けでした。そもそも、本当にあったことそのまま書くのが真理だと思っていた人間だったので、劇作家にも関わらず作為的な「仕掛け」に抵抗感を持っていました。でも、その仕掛けで物語は完成し、そしてそうして初めて描けることがあるとこの作品で実感できました。わずか二ヵ月半前「物語がなくちゃ演劇じゃないのか!」と吠えていた私が、物語の持つ力にやっと気がついたのです。こうして『指』は誕生しました。

私は現実が好きです。現実ほど尊いものはないと思っています。薄汚くて、非道で、ぐちゃぐちゃな現実が好きです。その中にほんの一瞬現れてしまう「汚くないもの」を書きたくて戯曲を書いています。しかし、それを表現するのには、現実そのままじゃいけないのだと、ミナモザ旗揚げ10年目にしてようやく気がつきました。そして、あまりにもひどい現実の前では、物語が意味を持つことをようやく知りました。

ドラマターグのことを書くつもりがなんだか作品全体のことになってきてしまいました。このあと、『国民の生活』『ファミリアー』『彼らの敵』と続きます。

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